観音寺の縁起
真言宗智山派観音寺は霊照山無量寿院と号します。智山派は京都智積院を総本山とし、成田山新勝寺、川崎大師平間寺、高尾山薬王院の三山を大本山とする、全国に3000の寺院を擁する宗団でございます。
さて観音寺の創建は天文13年(1544)と伝えられ、開山は法印良範和尚で元亀3年(1572)に入寂されています。
万延元年(1860)2月16日深夜、本堂西側の杉林より出火した火災により、本堂、諸堂宇を焼失してしまいましたが御本尊は難を逃れました。そこで翌2年1月に地元檀徒であった屋号「油屋」の建物を移譲して仮本堂としました。仮本堂はその後、明治5年(1872)の学制施行に伴い、串作村(現加須市)、真名板村(現行田市)、下新郷村(現羽生市)の三村を連合して一つの学校区域として立正学校、その後改称して明道学校の仮校舎として一時期使われました。この仮本堂は現在は「幸心庵」という名前の客殿として大切に使われています。
さて当山第二十一世、中興一世法印昌平和尚、〔平成27年(2015)入寂〕の代において、山容が多いに整備されました。寺院整備事業の発端として、江戸時代から続く墓地の整備改修が4年の歳月を費やして昭和56年(1981)に竣工しました。その際発掘されましたご遺骨は、本堂右手に新たに建立された無縁仏供養塔にて手厚くお祀りされています。尚、墓地の高台化に伴い墓地外周に高さ4メートル総延長150メートルに及ぶ築地塀が築造され、当山のシンボルの一つとなっています。更に昭和63年(1988)鐘楼堂、平成6年(1994)新本堂、平成7年(1995)旧本堂を改修しての客殿(幸心庵)及び本堂と客殿を結ぶ回廊の新築、平成14年(2002)御水屋及び境内排水整備等々、山容は着実に整備されてまいりました。
以上の山容整備は、当寺の檀徒総代、故岡村七郎氏をはじめとする檀徒の発願によるもので、皆様の物心両面に渡るお力添えによって成就されたものであります。
最後に令和二年十月には現在の墓地の一画に永代供養墓「報恩廟」が落慶されました。